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源平合戦の英雄 源義経。「牛若丸と弁慶」の牛若丸としても知られ、「一の谷の戦い」や「壇ノ浦の戦い」などで源氏勝利の最大の功労者でありながら、兄の源頼朝(みなもとのよりとも)と対立した義経は、北へと追われ、岩手県奥州市でついに自害したといわれている。
ところが、義経だといわれていた首は別人のもので、義経と弁慶は密かに脱出し、津軽海峡をわたって蝦夷地・松前にたどり着いたという「義経北上説」があり、北海道には数多くの義経と弁慶にまつわる伝説が残る。
アイヌの人々と暮らしたあと、藤原氏の残党や新しい部下たちとともに稚内から中国大陸に渡ってチンギス=ハーン(成吉思汗)と名乗り、モンゴルの王となったという伝説もよく知られていること。
ここでは、数ある「義経伝説」の中から、この旅で探訪するスポットに残る伝説をいくつかご紹介しよう。
弁慶はこの岬で義経を待ったといわれ、弁慶がアイヌ民族たちと相撲をとったといわれる土俵跡や弁慶が履いていた大きな下駄の足跡、義経が座った物見台、弁慶に投げ飛ばされた者の鼻血で赤く染まったといわれる赤岩がある。また、アイヌ語の“先端が裂けたような”という意味の「ペルケイ」が「弁慶」になまって、義経伝説にからめられたともいわれている。
その他、弁慶岬の横に並んでいる小高い二つの丘「二つ森」のあたりには、弁慶が旅立つ際に秘蔵の「金のお銚子と盃」を埋めたという言い伝えがある。
※写真は「弁慶の土俵跡」。
アイヌの襲撃にあった義経。熱心に介抱したメヌカというアイヌの娘に「来年にはきっと帰る」と義経は語った。「らいねん」が、「らいでん」となり、これが地名になったといわれる。
力持ちの弁慶が雷電岬のあたりでひとやすみをした時、近くの岩をひねって刀を掛けた。
時に磯釣りを楽しんだ弁慶は、その際にもこの岩に刀を置いたといわれる。また、この周辺には弁慶が財宝を隠したという伝説もある。
弁慶が暖をとるため薪を切り、その積んだ薪が化石となったと伝えられている岩。国道229号沿いの山側にある。
義経が腰をかけて釣りをしたという伝説が残る岩。
奇岩が多くみられる積丹岬周辺には「シララの小道」と呼ばれる遊歩道があり、義経とアイヌの首長の娘シシラとの伝説が残る。昔アイヌの人たちが住んでいた積丹岬の東にある入舸(いりか)。 義経一行は、日本海沿岸を北上し神威岬の沖を船で通過しようとしていたが、荒海に櫂を流され何とか入舸に流れついた。 アイヌの首長は娘シララに義経を介抱させ、義経の傷も順調に回復。 一族の再興をはかるため船出した義経の船を、 シララは岩伝いに追ったが大波にのみこまれてしまったといわれる。
積丹岬の近くにある、沖に向かって立つ女性のような岩。義経と恋に落ちたアイヌの娘シララは、旅立つ義経を追いかけて大波にのまれ、この岩になったといわれる。
神威岬への遊歩道は、両側に日本海の雄大な眺めを楽しみながら散策できる。
義経に想いを寄せるチャレンカという娘は義経が旅立ったと知り、「和人の船、婦女を乗せてここを過ぐればすなわち覆沈せん」という言葉を残して海へ。そしてこの岩になったといわれる。日本海最大の難所とされ、かつては航海の安全を祈願し安政3年(1856年)までは女人禁制だった。
